(出てきた……) 銃撃戦となったら、物を言うのは弾幕だ。サブマシンガンを持っていない以上は両手に持った拳銃で戦うしか無い。 先頭の一人は拳銃を持っているのが見えた。(はいはい、チャイカの仲間なのは決定……) ひょっとしたら無関係な船員もいるかもしれないと思っていたが安心して殺せそうだ。 ディミトリは満面の笑みを浮かべて両手の拳銃から弾丸を送り込んでやった。 気分良く撃っていると頬を何かが掠めた。銃弾だ。後ろにも回り込まれてしまったのだ。 ディミトリは右手は出口、左手ではデッキの後方を撃ち出した。 やがて、左手に持ったトカレフの銃弾が尽きた。マガジンを交換している空きは無い。ディミトリは迷うこと無く銃を捨てた。 そして、右手の銃を懐にしまうと、下のデッキに移ろうとして飛び降りたのだ。「うわっと!」 ところが、デッキの下のデッキの手すりを掴みそこねて更に落下してしまった。「おっと……」 舷窓の枠に捕まる事に成功した。そして、腰にぶら下げておいた吸盤を張り付けた。 指先だけで窓枠に捕まるより楽なのだ。 そのまま海の中に逃げても良かったが、自分が泳ぐ速度より陸上を移動される方が早いに決まっている。(もう少し時間を稼ぐ……) ディミトリは窓に向かって銃を撃った。しかし、期待したような割れ方をしなかった。 窓ガラスを銃で撃つが穴が空くだけだった。荒れ狂う波風に耐えることが出来るようにガラスが頑丈なのだ。「くそっ、なんて頑丈に出来てやがるんだ!」 穴の開いた窓を蹴飛ばしながら怒鳴った。 ディミトリは窓の鍵があると思われる部分に、銃弾を集中して浴びせ腕が入る隙間を作り出した。 その間にも、ビシッビシッと銃弾が降り注ぐ音が通り過ぎていく。停泊しているとはいえ、波による揺れは多少はある。 彼らでは薄暗い背景に溶け込むような衣装のディミトリを撃ち取れないようだった。(よしっ! 開いた) 窓の鍵を開けて室内に潜入するのに成功した。(小柄な身体が役に立ったぜ……) 室内に降り立ったディミトリは立ち上がって見渡した。上下二段のベッドが並んでいる。船員用の寝室のようだ。 すると、一つのベッドで誰かが起き上がって来た。 室内に居たのは船員だった。ベッドの上で両手を上げて固まっている。 窓が割れたかと思うと男が入ってきたのでビックリしたら
故障したボイラーを二重構造にして、薬の密輸をしていた組織を強襲した事を思い出したのだ。 あの時には中に人間も入っていてビックリしたものだ。『それならひとつ下の甲板にあるが……』『赤毛のロシア人が出入りしていたか?』『そこまでは分からない…… 彼らに近づかないようにしていたからな』『それは賢い判断だ。 ありがとう……』 部屋を出ていこうとして、ディミトリは振り返った。『静かになるまで外に出ない方が良いぞ』『ああ、慣れているさ』 ロナルドはそう言って片目を瞑った。 部屋を出て扉を閉めると、上のデッキで走り回る音が聞こえていた。ディミトリを探しているのであろう。 船員の話を聞いたディミトリは金の探索は諦めた。探す所が多すぎる。アオイがゴムボートで逃げる時間を稼いだら、さっさと逃げ出そうと決めたようだ。 ディミトリは廊下を走って階段に近づこうとした。すると階段を降りてくる音が聞こえて来た。(ちっ、機関室に隠れるか……) 階段を昇るのを諦めて下に降りていった。そして、廊下伝いに開いているドアを探し回った。隠れるためだ。 すると、突き当りのドアが開いていたので、滑り込むように中に入っていった。 その部屋には灯りが一つだけ点いていた。そして灯りの中央に椅子があり、元は男だったと思われる死体があった。 男の遺体は手足を椅子に縛られたまま放置されている。 裸体を見ると所々が削がれており、手足の指先には釘の様な物が差し込まれた跡が見える。激しい苦痛と恐怖と絶望を経験した後に死んだのは間違いないだろう。 その表情には死ぬことで開放される喜びを表していたのだ。(相変わらず拷問を楽しんでやがるな……) ディミトリは誰の仕業か直ぐに理解できた。チャイカだ。彼はGRU仕込みの拷問を行う事を得意としていた。 相手は誰だろうかと一瞬思ったが、人種が黄色い奴ぐらいしか分からなかった。梵字の入れ墨が有ったからだ。(まあ、得意というより興奮するんだろうな……) 中々いけ好かない性癖だが、戦場で人の死に接していると何かが外れてしまう事も知っている。 きっと自分もその一人なのだと、分かっているディミトリには彼の事を責める気にはなれない。 それに、普段の彼は愉快で明るい奴なのだ。(……まてよ……) そして、ディミトリはある事に気が付いた。 チャイカは
『何だ? 俺を見ると左目が疼くのか?』「……」 ディミトリの戦友であり本体が死ぬ原因になった男だ。 ユーリイ・チャイコーフスキイ。愛称がチャイカ。左手の指が全て拷問で切り取られている。 前の身体の時には、彼を助けるために左目を失うというハンデも負ってしまった。『まあ、あの時にお前が助けてくれなかったら、俺は死んでいたろうがな……』「……」 ディミトリは怒りに満ちた目で彼を睨みつけていた。だが、銃は構えたままだ。 撃てないのはチャイカの後ろの男たちが、カラシニコフを構えているのが見えるからだ。『昔話はこの辺で良いだろう……』「……」 ディミトリが何も言わずにいると、チャイカは少しだけ肩を竦めた。『お互いにベテランの傭兵だ。 ビジネスの話をしようじゃないか』 チャイカはベラベラと旧知の友人に話しかける感じで喋っている。 多分、コカインをキメているのであろう。彼は薬物依存でGRUを首になっている。『何。 話は簡単だ……』「ソイツは何の話をしているんだ?」 ディミトリがチャイカの話を遮って周りに話し掛けた。「誰か通訳してくれよ……」 銃はチャイカに照準したままだ。チャイカ以外の男たちは顔を見合わせていた。 確かに部屋の中央で日本人の少年が銃を構えているだけだ。 最初に聞いた話では、チャイカの元同僚のロシア人傭兵だったのだ。『コイツはロシア語が出来ないみたいですぜ?』 部下の一人と思われる男がチャイカに進言している。ディミトリは分からない振りを続けていた。 アオイの話では通訳をする男が居たと言っていた。コイツがそうなのであろう。『騙されるな…… コイツは間違いなくディミトリ・ゴヴァノフだ』「俺を逃してくれれば、船の底に隠してある麻薬の事は警察には言わないでおくよ」 切り札を使うのは気が引けるが、まだ駆け引きが出来るか試してみることにした。「十五分以内に船から脱出出来ない時には警察に通報するように女に頼んである……」 もちろん嘘だ。そんな打ち合わせをする暇は無かった。だが、ここに居る男たちは知らない事だ。 するとチャイカ以外の男たちの眼付が変わった。『耳を貸すんじゃない。 ソイツは俺と同じくらいの嘘付きだ』 チャイカ以外の男が思わず笑い出した。『俺には子供にしか見えないんですが……』『それは見かけだけだ……
モロモフ号。 ディミトリは銃を構えたまま、男たちと睨み合っていた。チャイカの他にAK-47を構えたのが二人居た。 AK-47とは旧ソ連で開発された自動小銃。どんなに悪辣な環境であろうと弾が出る傑作品だ。唯一の問題点は、的に当たらないことぐらいだ。 世界中で模造品が製造されている。彼らが構えているの、その一つだろうとディミトリは思った。「……」 一方、脅された当事者であるチャイカは平気な顔をして泰然としている。何か秘策が有るのであろう。『船の底に隠した麻薬なんて無いよ』 そう言ってチャイカは笑った。どうやら麻薬取引は既に終了しているらしい。『お前がシリアマフィアから掻っ攫った金を返しな』「!」 瞬間。ディミトリの中で失われていた記憶が蘇る。ノートパソコンの画面が浮かんできたのだ。 そう。ディミトリは最後の瞬間まで金の転送作業をしていたのだ。金はもちろん麻薬取引の金だ。 それから、自分の口座の金額がモリモリ増えていくの眺めている記憶も思い出した。(それで狙われていたのか……) 中国人にしろロシア人にしろ、危険を侵してまで自分を追いかけ回す理由が分かった。 麻薬取引であれば結構な金額に成る筈だからだ。『あれは俺の物なんだよ』 そう言えば、事前に金に関する事を言ってきたのはチャイカだった。ノートパソコンへのアクセスの仕方と振込先の口座も彼が教えてくれた。 だが、ディミトリが振込先を勝手に変更したので計画が狂ったようだった。『折角、お膳立てしたのに、お前さんが全部パアにしやがった……』(やはり、あの爆発はお前が仕掛けた物だったのか……) ディミトリが覚えているのは、爆炎が迫ってくる光景の中で逃げようとする仲間たちだ。 自分を吹き飛ばした爆風が収まった時に、自分を見ろしている人物が居たのは覚えている。 それがチャイカだったのであろう。「なんだ…… 拷問でもするのか? 知らないものは答えようがないだろう?」 ディミトリがふてぶてしく答えた。 通訳が翻訳し終えると、チャイカは笑い声をだした。想定済みだったのであろう。『ははは、お前が拷問に慣れているのは知っている』 実際は、ちょっと痛い思いをすると気絶してしまうが、彼は知らないようだった。 最近はイメージトレーニングで凌げるようになったとは言え万能では無い。今の状況では拷問
モロモフ号。 船の底に近い階層からチャイカを追いかけてディミトリは飛び出そうとした。 しかし、彼の耳にコッキング音が聞こえた。後ろからだ。迷わず音のした方に自動小銃を向けての引き金を引いた。 一瞬のためらいは自分の安全を脅かす。兵隊時代には確認してから引き金を引けと言われた。だが、傭兵になった時には引き金を引いてから確認するようになった。そうしないと生き残れないからだ。(あの時だって俺は生き残りたかっただけだ……) ディミトリは戦闘で突入するビルに、窓から中に手榴弾を投げ込んだ。事前に安全を確保する為だ。 爆発した後に踏み込んでみると出鱈目な状態になった子供の死体があった。何で戦闘地域に子供がいるんだという思いと、彼らが腹に爆弾を巻かれている光景も合わさって鬱になってしまった。 それ以来、子供を見ると散らかった死体を思い出してしまうように成る。後にPTSDと診断されたのだ。苦い記憶だった。 そんな兵士として使い物にならなくなったディミトリを励ましてくれたのがチャイカだった。 引き金を引きながら思い出していると、弾幕の中で二人の男たちが倒れていくのが見えた。 しかし、AK-47の偽物とはいえ中の機構は本家と同じだ。フルオートで連射すると五秒も持たないで弾倉が空になってしまう。(しまった……) 久しく扱って無かったのでAK-47の感覚を忘れていたようだった。ディミトリは倒れていた男たちから弾倉を回収した。(引き金の加減を思い出さなと……) 戦線での弾切れは死刑宣告と同じだ。弾切れを気にしないで戦うのは米兵ぐらいなもんだ。(こっちの方角か……) 男たちが居たということは、チャイカはこちらに逃げて行ったであろう方角に目星を付けた。(大きめの船倉区画だったよな……) 貨物コンテナが入っている大きい船倉のはずだ。普通なら追撃を諦める場面だ。 敵の勢力も分からない状態はかなり拙いからだ。それでもディミトリは止めなかった。(俺がどういう手術を受けたのかを聞き出さないと……) それは自分の本体の所在が何処に有るのかと、元に戻れるのかを聞きたかったのだ。 ディミトリは命の危険は感じて居なかった。チャイカは彼が持っている金の在り処を知りたがっていたからだ。(俺から金の在り処を聞き出すまではアイツは諦めないさ) そう考えてフッと笑いだした。
チャイカは右手に持った拳銃をディミトリに向けた。それは、元傭兵とは思えないお粗末な物だ。ディミトリなら銃を目の前に構えずに目算で撃ちまくる。一発でも当たれば御の字だからだ。 しかし、チャイカは手本取りに銃を構えようとした。ディミトリはすかさず拳銃を撃ち落とす。相手を撃つ時に銃を構える僅かな時間は命取りなのだ。床に転がる拳銃を呆気に取られて見つめるチャイカは、口の中で何かをゴニョゴニョ言っていた。『さてと、二人きりで話をしようじゃないか……』 ディミトリが流暢なロシア語で話し掛けた。チャイカは苦渋の表情を浮かべていた。『死ねよ、疫病神……』 しかし、チャイカは憎々しげに捨て台詞を言い放つと、手すりを乗り越えて海に飛び込んでいった。 チャイカは自分と同じくらいに、ディミトリは拷問が得意なのを知っているのだ。(え? お前は泳げなかったろう……) 唖然としたディミトリは直ぐにその事を思い出した。 直ぐに手すりの所に駆けつけたが、チャイカの姿はどこにも無かった。海面には波紋が広がっているだけだ。 チャイカは追い詰められて逃げていったのだ。『クソがっ!』 ディミトリは憮然としていた。後少しの所で獲物を逃してしまったのだ。悔しくて堪らないらしい。 彼はアカリに電話を掛けた。彼女は待っていたのか直ぐに出てくれた。『若森くん。 大丈夫?』「ああ、大丈夫……」『そう、良かった……』「お姉さんに変わってくれるかな?」『ええ』 電話をしながらもディミトリは海面から目を離さなかった。息継ぎしている所を狙いたかったのだ。 だが、チャイカは海面に出て来る様子は無い。彼も狙われていることを予期していたのであろう。 薄暗い海面ではこれ以上は無駄だと悟ったディミトリは引き上げることにした。「例のロシア人に逃げられてしまったよ……」『君のことを知っているようだったけど……』「誰かと間違えているんだろう」『……』 もちろん、ディミトリの嘘はアオイにはお見通しなのだろう。彼女は黙ってしまった。「俺の尻は白人のおっさんにとって好みのタイプなんだろうよ」『馬鹿……』 ディミトリは適当に茶化してみたが、余り効果はなかったようだ。却って怒らさせてしまった。 そこで、彼女に頼まれていた事を伝えた。「子供は一緒にいるから船の舷門まで車で迎えに来て欲しい」
ディミトリは部屋の中を物色しはじめた。シンイェンが子供なので興味を無くしたのであろう。 それよりも手がかりを探すことを優先したのだ。『お前の名前は?』『ワカモリ・タダヤス』『そう、タダヤスね……』 この部屋には目ぼしい物が無い事を悟ると出ていこうとした。『ふね おりる』『分かった』 ディミトリが言うとシンイェンは大人しく付いてきた。もっとも、ディミトリのシャツの裾を掴んだままだ。 もっとも、彼女には他の選択肢が無い。ここでディミトリに逸れると、嫌な思いをしなければならないと悟ったのだ。 彼女の今後はアオイと相談して決める事にした。警察に頼めない以上は密出国させる事になるが手立てが不明だ。 ディミトリは道すがら倒れている男たちの身体を調べ回った。武器や身分証を持っている袋に入れる為だ。 後でコイツラの背景を調べるのに必要だ。チャイカが逃げた以上は小さな手がかりでも欲しかったのだ。 チャイカの話から中国系の連中がクラックコアを施術したのは分かった。後はどうやったのかと戻れるのかが知りたかった。 それと自分の身体の在り処だ。(金を掻っ攫ったのなら元の身体に戻らないと楽しめないしな……) 自分を狙う理由が分かって心のモヤが晴れた気分だ。 次は中国系の連中をとっちめる必要がある。その為の下準備を始めるつもりだった。 シンイェンを連れて食堂に行くと全員机の下に潜っていた。銃撃戦が始まったので跳弾を避けるためだろう。 外国ではよく見る反応だ。 銃撃戦の中でポケーと突っ立ているのは日本人ぐらいだ。生活の中に銃が存在しないので仕方が無い面もある。『この中に船長は居るか?』 ディミトリが英語で尋ねると、一人の男が立ち上がった。他の者たちはディミトリを注視していた。 拳銃を腰の位置で構えたまま彼に向ける。銃に気が付いた船長は小さく手を上げた。『俺がそうだ』『密輸をやってた連中の仲間か?』 ディミトリは少しホッとした。密輸の仲間なら全員を殺るつもりだったからだ。憂いを残すのは後々トラブルになる。 だが、全員を殺るには弾数が少ないのが心配だったのだ。『俺は違う。 航海士が連中とつるんでいたんだよ』『そうか、あの連中は全員始末した』 ディミトリの言葉に食堂の船員たちはザワついた。 シンイェンはディミトリと船員たちを見比べていた。
車の中。 モロモフ号を下船したディミトリとシンイェンはアカリが運転する車に乗り込んだ。 見知らぬ二人に怯えているのか、シンイェンはディミトリのシャツを掴んだままだった。『ふたり なかま』『……』 ディミトリがそう言うと、シンイェンは二人に軽く会釈をした。「え、若森くんは中国語が出来るんだ」 アカリがビックリした様子で話し掛けてきた。彼女はディミトリの事をヤンチャ坊主だと思っていたのであろう。「簡単な単語を並べることしか出来ないけどね……」「それでも凄いよ。 私はアカリ。 宜しくね!」「私はアオイよ……」『林欣妍(リン・シン イェン)よ。 どうぞ宜しくお願いします』「彼女は宜しくと言っている」 スマートフォンの翻訳アプリを使えば、ある程度の意思疎通は可能だ。 だが、自分で喋ることが出来るのとは違う話だ。『ふたり しまい おまえ くらす』 そう言うとシンイェンは頷いていた。彼女たちが姉妹で、これからシンイェンの面倒を見てくれると理解したようだ。「これから彼女の面倒を見てやってくれ……」「え?」 アオイが戸惑ったような表情を見せた。どうやら助け出した後でどうするのかを考えていなかったようだ。「え…… って、お前が助けろと言うから助け出したんだじゃないか……」 困惑するアオイにディミトリが憮然として言った。 元々、助ける気など無かったので、彼女を故国に返す手立てなど考えてもいなかったのだ。 このまま押し付けられても子供の面倒など見ていられない。「それに中学生の小僧にどうしろと言うんだよ」「……」 都合の良い時には小僧の振りが出来る。中々、便利な立ち場だとディミトリは思っていた。「分かった…… とりあえずは私の部屋に連れて行く……」 アオイはディミトリの言うことも尤もだと思い、自分の家に連れて行くことにしたようだ。 シンイェンの方をちらりと見て、服を買ってあげないようと考えた。粗末な薄汚れたワンピースのままなのだ。「ああ、彼女の親の事や、拉致された経緯などを聞き出せば良い」 その上で、今後どうするか考えれば良いはずだ。 シンイェンの親が警察を頼りたければそうするし、そうでなければ違う方法で帰す手段を考える。「え? 親が警察を頼らない事ってあるの?」「犯罪組織同士のイザコザで誘拐されたって線も有るんだよ……」
(まあ、上書きされるのだから消えてしまうのだろうな……) 一家は全滅するわ脳は乗っ取られるわで、ワカモリタダヤスは地球上でもっともツイテナイ奴だったようだ。(しかし、見ず知らずの小僧に上書き保存されているのか……) 何だかパチモンのUSBメモリーに保存された、違法ソフトの気分に成ってきたのだった。「最近、偏頭痛が酷くないかね?」「ああ、失神してしまうぐらいに手酷いのが襲って来るよ」「その偏頭痛は副作用的なものだな」「……」「他人の脳に無理やり書き込んでいるので、脳の処理が追いつかず肥大化しはじめとるんじゃ」「すまない。 人間に優しい言葉にしてくれ……」「脳の活動が活発になりすぎている。 なら良いか?」「ああ……」「やがて脳が肥大化しすぎて機能停止してしまうかも知れんな…… ふぇっふぇっふぇ……」 博士がそう言って力無く笑い声を出した。「そうか…… じゃあ、元に戻るには自分の身体が必要と言うことだな?」「……」 ディミトリは相手に書き込みが出来るのなら、元に戻すことも出来るのではないかと考えたのだ。 それで博士に質問してみたのだが彼は俯いて黙ったままだった。「?」「……」 ディミトリは振り返って博士を見た。項垂れている。明らかに様子がおかしい。「博士?」「……」 アオイが博士の身体を揺さぶってみたが反応は無い。 彼女は博士の首に指を当てて呟いた。「死んでるみたい……」 博士は椅子に座ったまま絶命していた。シートの下に血溜まりが見えている。 ヘリコプターが飛ぶ時の銃撃戦の弾丸が腹部に命中していたのだった。「くそっ、肝心なことを言わずに……」 一番聞きたかった所を言わずに博士は逝ってしまったようだ。 ディミトリの自分探しの旅は終わりそうに無かった。見知った天井。(うぅぅぅ…… ここはどこだ?) ディミトリは眩しそうに目を開けた。眩しいのは自分の頭上にある蛍光灯のせいのようだ。 だが、視界が定まらないのかグルグルと部屋が回っているような感覚に襲われている。いつもの既視感である。(くそ…… またかよ……) どうやら、お馴染みの大川病院であるようだ。 ディミトリはジャンたちが使っている産業廃棄物処理場にヘリコプターを着陸させた。ここなら無人であると思っていたのだが、考えていた通りに誰も居なかった。ヘリコ
ヘリコプターの中。 ディミトリたちを載せたヘリコプターは川沿いに飛行を続けていた。普段、見慣れないヘリコプターが低空飛行をする様子を、川沿いの人たちは驚きの顔を向けていた。 操縦席にディミトリ。後ろの席に博士とアオイが乗っていた。「なぁ博士。 クッラクコアって手術はどうやるんだ?」 ディミトリが後部座席に座っている博士に質問をした。何か話をして気を紛らわさないと痛みに負けそうだからだ。「簡単に言えば、人の脳に他人の記憶を書き込む手術のことだ」 博士が素っ気無く答えた。アオイが吃驚したような表情を浮かべていた。「そんな事を出来るわけが無いだろ」 ディミトリは笑いながら答えた。普通に考えて滑稽な話だからだ。「じゃあ、今のお前は何なんだ?」「……」 そう言われるとディミトリも困ってしまった。何しろ自分は東洋の見知らぬ少年の中に居るからだ。 魂とは何かと言われても哲学や医学の素養が無いディミトリには無理な話だ。「世間が知っている技術では出来ないというだけの一つの話に過ぎないんじゃよ」 そう言って博士はクックックッと笑った。 どうやら博士は他にも色々と問題のありそうな手術をした経験がありそうだ。(ドローンの盗聴装置の話みたいだな……) ロシアのGRUに居た友人の話で、ドローンを使った盗聴装置の話を聞いたことがある。 ドローンからレーザー光線を出し、それがガラスに当たった振幅を解析する事で、部屋の中の会話を盗み聴きするヤツだ。既に実用化されていて、今は人工衛星を使っての同種の装置を開発しているのだそうだ。 これ一つ取っても科学技術の進歩の凄まじさが伺えるようだ。(犬に埋め込んだ盗聴装置もあったしな……) 生物の代謝に伴うエネルギーを電源に使うタイプの盗聴装置だ。これだと長い期間動作が可能になる。 これが対人間相手の技術なら、その進歩はもっと凄いことになっていそうだとディミトリは思った。「科学の世界には、表に出てない技術が山のように有るもんだよ」「クラックコアもその一つなのか?」「もちろんだとも」 人間の記憶というのは神経細胞のシナプスに化学変化として蓄えられている。その神経細胞を構成するニューロンの回路としてネットワーク化される。無限とも言える変化の連続を、人間は記憶と呼んでいるのだ。 そして、記憶と記憶を結びつける行為を
ディミトリは操縦席に乗り込んだ。ここからは時間との勝負だ。(まず、バッテリースイッチを入れてスタートに必要なスイッチをONにして電源を入れる……) 昔教わった手順を思い出しながら、次々とスイッチを入れていった。その間も入り口の方から銃撃音が聞こえる。 銃弾を撃ち終えたアオイがヘリコプターに乗ってきた。博士もちゃっかり乗っかっている。「側面ドアを紐か何かで結んでおいて!」 容易に乗り込めないように紐で結んで固定させてしまうのだ。少しは時間が稼げる。(エンジンスタートスイッチを入れてスターターを回し空気圧縮開始……) 覚えている手順を口の中で反芻しながら計器を見つめていた。 ここで駄目なようだったら最初からやり直しだ。だが、その時間は無さそうだ。『くそっガキがあ~』『なめてんじゃねぇぞ!』 ドアを叩きながら怒鳴り声を上げているのが聞こえた。 どうやら、ディミトリが用意したスマートフォンのトラップが見破られたらしい。(確か、この回転数…… エンジン点火……) ジェットエンジン特有の甲高い音が響き始めた。エンジン始動は巧く行ったようだ。 銃声が聞こえ始めた。どうやら、鍵がかかっていると思い始めたのだろう。 ドアノブの周りに穴が空き始めた。「急げっ! 急げっ!」 ディミトリがエンジンの回転数を見ながら声を上げていた。(回れまわれ!) ヘリコプターのメインローターがゆっくりと回り始めた。そして、十秒もしない内に回転速度を早めていった。 やがて、ヒューイ独特の風切り音もし始める。『え?』『え?』『ヘリを動かしてるのか?』『ふっざけんじゃねぇぞぉぉぉぉ!』 ジャンたちも漸く自体が飲み込めたらしい。追い詰めたと思ったのにまさかの逃走手段を使っているのだ。(よしっ! イケる) ディミトリはコレクティレバーを引いた。これで揚力を制御して浮き上がるのだ。(ふふふ、俺ってばクールだぜ!) そして、ヘリコプターが浮き始めるのと、屋上のドアが開くのは同時のようだった。 中から複数の男たちが走り出しているのが見えた。中には銃を撃っているものも居た。カンッ、キンッ、ビシッ ヘリコプターの飛翔音に混じって異質な音が聞こえていた。サイドドアに付いている窓にヒビが入る。「ふっ、無駄だね!」 ディミトリはヘリコプターが浮き始めるのと同
「よさんかっ! わしが居るのが見えないのかっ!」 博士がジャンたちに向かって怒鳴った。しかし、彼らの返礼は銃弾だった。「ひぃー……」 博士は荷物の影に再び隠れた。「何故にわしを撃つんだ……」「もう必要が無くなったんだろ」 ディミトリは自分が本人である事を認めたので、博士の役割が終わったのだろうと推測したのだ。「貴重なサンプルなのだから殺すなと言っておいたのに……」 博士としては成功した理由を明らかにしたかったのだ。 だが、ジャンたちの目的が科学者特有の知的な好奇心では無いのは明白だ。 それは、ディミトリが握っている麻薬組織の巨額な資金なのだ。 クラックコアが有効な方法であると分かったのなら、今の反抗的なワカモリタダヤスに入っているディミトリは不要だ。 『従順なディミトリを再び作れば良い……』 こう、結論付けるのも無理は無い。 自分でもそうするとディミトリは考えるし、何より彼らが焦りだした理由のほうに興味があった。「くそっ逃げ道が無い!」 反撃しているが銃弾の残りも心細くなってきた。このままでは拙い事は確かだ。「おい…… 屋上にヘリコプターが有るぞ!」 博士が銃撃音に負けないように大声で教えた。「……」「分かった屋上に向かおう!」 ディミトリは暫し考え、騒音に負けないように怒鳴り返した。(操縦出来る奴であれば良いが……) 撃たれないように頭を低くして通路を素早く走り抜ける。その間も、走る後ろに向かって牽制の射撃は忘れない。こうすると、相手の追撃が鈍るのは経験済みだからだ。 博士も仕方無しに付いてきてるようだ。残ってもジャンたちに殺されると思っているのかも知れない。 ふと見ると撃たれて倒れている男がいた。ジャンの部下であろう。懐からスマートフォンが見えていた。(これを使わせてもらうか……) ディミトリはスマートフォンを手に持ち録画状態にした。自分の射撃する音を録音させる為だ。 そして、アプリを使って無限ループで再生するようセットした。これを使ってジャンたちの気を逸らすためだ。上手くすれば何分かの時間稼ぎが出来るはず。 ディミトリもヘリコプターのエンジンの掛け方ぐらいは知っている。そして、手順が厄介なのも知っていた。 何しろヘリコプターは車と違って直ぐには飛べない乗り物だ。どんなに巧くやっても、最短で二分はかか
「ぐあっ!」「うわっ!」 ジャンたちは急な発光に気を取られてしまった。 一方、コインを指に挟んだまま発火させた男は、親指と人差指が半分無くなってしまっていた。急激だったので指を放すタイミングを失ってしまっていたのであろう。「!」 ディミトリは相手が油断した空きを逃さなかった。反撃の開始だ。 相手のベルトに刺さっていた銃を奪い、ジャンたちに向かって連続で射撃した。正確に命中する必要は無い。相手の視界が回復する前に行動不能になってほしいだけだ。 弾丸はジャンや手下たちの腹に命中したようだった。 それから、後ろに居た男の頭を撃ち抜いた。椅子に座ったままだったので、顎の下から頭を撃ち抜くような感じだ。 男の脳みそが天井に向かって飛散していく。 室内に居た全員が倒れたすきに、ディミトリはナイフを使って手足の結束バンドを外した。それからジャンの手下たちのとどめを刺して回った。 ジャンは腹に当たっていたと思ったが逃げてしまっていた。中々に逃げ足が速い男だ。 しかし、ディミトリは追いかけようとはせずに博士の所に歩み寄った。 博士にも弾幕の一発が当たっているらしく肩から血を流していた。「俺の記憶とやらは何処にあるんだ?」「わ…… わしの研究所だ……」 いきなりの展開に腰が抜けてしまったのか、博士は床に座り込んだままだった。 荒事をするのは得意だが、されるのは苦手なタイプなのだろう。「研究所の何処だ?」「……」 博士は質問に黙り込んでしまった。ディミトリは博士の傍に座り込んで顔を覗き込んだ。だが、博士は黙ったままだ。 ディミトリは銃痕に指を入れてかき回してやった。博士の口から鋭い悲鳴があがる。「私の研究室にあるサーバーの中だ。 Q-UCAと書かれているハードディスクの中身がそうだ!」「ふん」 知りたいことを聞いたディミトリは立ち上がった。(さて、ジャンの奴を逃しちまった……) 自分の事を散々追いかけ回した彼には、是非とも銃弾を大量にプレゼントしてやりたかった。 だが、ここにはジャンの手下が沢山居るはずだ。相手のテリトリーで戦うような間抜けではない。「怖いお友達が来る前に逃げ出すか……」 ディミトリは倒れているアオイを助け起こして部屋を出ていった。 もちろん、博士も連れて行く事にした。聞きたいことが他にもあるからだ。 ディミ
「早くしないと君の魂はタダヤスから消えてしまうよ……」「……」 そう言うとニヤリと笑った。それでもディミトリは黙ったままだ。「自白剤を使いますか?」 ジャンは時間が惜しいので、さっさと自白させようと薬を使うことを提案してきた。 自白剤とは対象者を意識を朦朧とした状態にする為の薬剤だ。 人は意識が朦朧としてくると、質問者に抗することが出来なくなり、機械的に質問者の問いに答えるだけとなる。 しかし、副作用も酷く自白の中に対象者の妄想が含まれる場合も多いので信頼性が低くなってしまう。捜査機関などでは使われることが少ない薬剤だった。「そんな事をしたら折角の記憶が無くなるよ?」 博士が素っ気無く答えた。彼からすれば記憶に関する障害をもたらす薬品など論外なのだろう。 それは自分の研究成果が台無しになる事を意味する。金も研究成果も欲しい欲張りな性格なのだろう。「それに彼は拷問に対処するための訓練を受けているんだよ」 博士はディミトリの軍にいた時の経歴も掌握していた。「その女の子を痛めつけ給え、彼はきっと助けようとするだろう」 博士がアオイを指差した。恐らくモロモフ号の事も知っているのだろう。 アオイには特別な思い入れは無いが、自分の所為で他人が痛めつけられるのは気分の良い物では無いのは確かだ。 やっと出番が来たと思ったジャンはアオイをディミトリの前に連れてくる。 そしてジャンはおもむろにアオイを殴りつけた。殴られたアオイは転倒してしまう。「やめろっ!」「話す気になったかね?」 博士はニヤニヤしたまま聞いてくる。ジャンも手下たちも同様だった。「彼女は関係無いだろうがっ!」「相手のウィークポイントを責めるのが尋問のイロハだろ?」 そう言うとジャンはアオイの頬を再び殴りつけた。アオイの鼻から出る鼻血の量が増えてしまった。「分かった、分かった…… 教えるから辞めてくれ」 ディミトリが仕方がないので暗証番号を教えると伝えた。 ジャンと博士はお互いの顔を見てニヤリと笑った。 ジャンが手下に顎で指示をすると、手下はノートパソコンをディミトリの前に持ってきた。「手を動かせるようにしろ」 ノートパソコンを前にしたディミトリは言った。操作する為だ。「駄目だね。 お前さんの手癖の悪さはよく知ってるよ」 ジャンがニヤニヤしながら言った。「
「俺たちに任せてくれ! 三十分で吐かせて見せます!」「ああ、タップリ目に痛い目に合わせてやりますよ!」 部下たちが口々に言い募った。仲間を殺られたのが悔しいらしい。 それに、部下たちはディミトリの正体を知らないようだ。見た目が生意気な小僧に騙されているのだろう。「バカヤロー。 ぶん殴って白状する玉じゃねぇんだよ!」 ジャンは部下の方に向いて怒鳴った。 ディミトリは元兵士で拷問への対処法を熟知しているからだ。もちろん、限界が有るのだろうが、それを確かめるには膨大な時間を浪費しなくてはならなくなる。 ジャンはディミトリの正体を知っているので、無駄な時間は使いたくないと考えていたのだ。「あの女を連れてこい!」 部屋の外から女が一人連れて来られた。片腕を乱暴に掴まれて部屋の中に引き摺られるように入ってきた。 それはアオイだ。やはり捕まってしまっていたようだった。 アオイが連れてこられるのと一緒に初老の男性が入ってきた。「やあ、若森くん。 相変わらず元気そうだね」 彼はニコニコしながらディミトリに話しかけて来た。「君の活躍は色々と聞いてるよ」「……」「それともデュマと呼んだ方が馴染みが良いかね?」 彼はディミトリの渾名すら知っていた。「アンタ、誰?」 ディミトリは興味無さそうに聞いてみた。本当は興味津々だが、この相手に弱みを見せるのは拙いと感じているからだ。 情報の引き換えと同時に何を要求されるのか分かった物では無い。油断ならない相手だと判断したのであった。「私の名前は鶴ケ崎雄一郎(つるがさきゆういちろう)」 初老の男は長机の上にあるディミトリの私物を手に取って眺めながら答えた。「君の手術を担当した脳科学者さ……」 彼がディミトリに脳移植をした博士だったのだ。「君とは手術が終わった時に一度逢ってるんだが…… 覚えてないみたいだね」「……」 そう言ってニコッリと微笑んだ。ディミトリは黙ったままだった。本当に記憶に無いからだ。 だが、想定内であったのだろう。博士はニコニコとしている。ディミトリの反応を楽しんでいるようであった。「さて、君には質問が幾つか有るんだが……」 博士はディミトリの傍に立ち、見下ろしながら質問を始めた。「さて……」「聞く所によると君は麻薬組織の売上金。 百億ドル(約一兆円)を掻っさらったそうじ
何処かの倉庫。 ディミトリは倉庫と思われる場所に一人で居た。 その顔は腫れ上がっており、片目が巧く見えないようだった。口や鼻から出た血液は乾いて皮膚にへばり付いている。 恐らく仲間をやられた報復で、散々殴られていたようだ。(くそっ……) 気が付いたディミトリは腕を動かそうとした。だが、出来ないでもがいていた。 安物っぽいパイプ椅子に両手両足を拘束されていた。両手両足をそれぞれ別のパイプに拘束バンドで止められているのだ。 これでは解いて逃げ出すのに時間が掛かり過ぎてしまう。 彼の逃げ足が早いことを、灰色狼の連中は知っているのだろう。(身体が動かねぇな……) 部屋には中央に灯りが一つだけ点いていた。壁際に監視カメラがある。室内に見張りが居ないのはこれで監視しているのだろう。 入り口には長机が置かれてあり、その上にディミトリの私物が並べられている。 暫くすると入口のドアが開いて何人かの男たちが入ってきた。 ディミトリが意識を取り戻したのに気が付いたらしい。「コイツを殴るなって言ったろ?」 派手なシャツを着た男が、ディミトリの様子を見て怒鳴った。ディミトリが怪我をしているのが気に入らないらしい。「すいません……」「コイツにケンジを殺られたんで…… つい……」 何だか派手なシャツを着た男と、スーツ姿の男二人がやり取りをしている。 ケンジとは誰なのか分からないが、ディミトリが殺った奴の一人であるのは間違いない。 シャツの男がコイツラの頭目だろう。(じゃあ、コイツが張栄佑(ジャン・ロンヨウ)か……) ジャンは灰色狼の頭目だとケリアンが言っていた。そして、目的の為には手段を選ばない男だとも聞いている。 性格が冷酷で厄介な相手であるのは間違いない。「特に顔を殴るのは良くない……」 ジャンは座らされているディミトリの周りをゆっくりと歩きながら言った。ディミトリの怪我の具合を確認しているのだろう。 見た目は酷いが死ぬことは無さそうだ。 ジャンが歩く様子をディミトリは目で追いかけながら睨みつけていた。「もし記憶が飛んでいたら、今までの苦労が水の泡に成っちまうからな」 そう言って笑いながらディミトリの頭を掴んで自分に向けさせた。そして顔を近づけてディミトリの目を覗き込んだ。 まるで相手の深淵を汲み上げようとするような鋭い目つきだ。
その場に居たパチンコの客たちは、一瞬に呆気に取られてしまっていた。だが、直ぐに店内は悲鳴と怒号に包まれていく。「え?」「ええ!?」「ちょっ!」「ああーーーっ! 俺のドル箱に何をする!」 誰かが大声で喚いていた。それでも、彼らはパチンコのハンドルを握る手を緩めない。 リーチ(大当たりの前兆)が掛かるかも知れないからだ。緊急事態より眼の前にある台の去就の方が大事なのだろう。 普通の人とは感覚が違うのだからしょうがない。 そんな喧騒とは別に運転席でモゾモゾと動く影があった。「痛たたた……」 ディミトリだ。彼は無事だったようだ。すぐに自分の両手を握ったり開いたりして怪我の有無を確認していた。 足の無事を確かめようとして、顔が歪んでしまった。どうやら打ち所が悪い部分があったようだ。(ヤバイ…… 早く逃げないと……) ふと見るとディミトリは自分の銃の遊底が、引かれっぱなしになっているのに気がついた。弾丸を撃ち尽くしたのだ。 予備の弾倉も使い切っている。(コイツは何か得物を持ってないか……) 助手席で事切れている男の身体を触ってみた。すると男の懐にベレッタを見つけた。弾倉はフルに装填されている。 右手が銃床を握っているので取り出そうとしたのだろう。乗り込もうとした時に銃撃したのは正解だったようだ。 ディミトリは銃を奪い取ってから、予備の弾倉を探したが持っていなかった。(まあ良い。 これだけでも闘える……) そして、懐から狐のアイマスクを取り出して被った。(くそっ、玩具のアイマスクしか無いのかよ……) 本当は目出し帽で顔を隠したかった。だが、狐のアイマスクしか無かったのだ。 これはケリアンが手配してくれた車のシートポケットに入っていた物だ。恐らくシンウェイの物であろう。(無いよりマシか……) パチンコ店の至る所に監視カメラがあるのは承知している。それらの監視の目を誤魔化す必要が有るのだ。 これだけの大騒ぎを起こしたのだから、警察が乗り出すのは目に見えている。いずれバレるだろうが、今はまだ警察相手にする余裕が無い。時間稼ぎが目的だ。(時間を稼いで楽器ケースにでも隠れて外国に逃げるか……) ディミトリは足を少しだけ引き摺るように階段を下りていった。最早、痛みがどうのこうの言ってられない。 急がないと駐車場ビルから、奴らがすぐ